2009年9月10日木曜日

わが青春の映画たち 2

初めて行った名画座は、池袋の文芸坐だったと思う。一旦閉まる前の(今は復活した)旧文芸坐である。何を見たかは良く憶えていない。どんな感想を抱いたかの断片も残っていない。ただ、理由のわからない満足感だけはあった。

名画座通いと併行して始めたのが、レンタルビデオ屋で(DVDはまだなかった)、映画を借りて、観ることだった。そんななかで、印象に残っている作品は、『竜二』、『桜の園』、『BU・SU』である。

その頃は、まだTUTAYAなどなく、小っちゃいビデオ屋が、近所に2~3軒あるだけだった。そこで何時間もいて、色々知識を得る事に、熱中した。一番よく行ったビデオ屋は、今は、ドコモショップになっている。これも、時の流れだ。

 正直に言えば、半分以上は、アダルトビデオを借りるためだった。といっても、18歳未満なので、正式なヤツは借りられず、『エマニエル婦人』とか、韓国の成人映画とかの、「エロ映画」を平静を装いながら、レジに持っていっていた。

わが青春の映画たち 1

せつない映画が好きだった。

 高校生の頃の話である。

 小学生の頃、親の勧めで受験させられ入学した有名進学校(中高一貫の男子校)の生活は「暗黒」だった。もともと人見知りするたちだった俺は、中二のクラス替えで、一年の時仲良かった友達たちと全員別れてしまい、新しいクラスで友達を作ることができなかった。ちょうど思春期に差し掛かったこともあり、勉強なんかに意味を見出せるわけもなく、また、入学して入った野球部も練習についていけなくて(俺は足が極端に遅く、初めのランニングでいつも一人だけ遅れてしまうのだった)、ただ学校に行き、まっすぐ家に帰り、夕方のドラマの再放送(『あぶない刑事』とか『探偵物語』とか。アニメの『ルパンⅢ世』もよく見た)を見て、夕食まで寝、夜中まで起きているという生活だった。

 俺は、活発な運動部の奴等が苦手だった。日常のつまらないことが気になり、つまづいてしてしまう自分は(「こいつのことをあだ名で呼んで良いのだろうか?」「廊下ですれ違った時どう挨拶しよう」)、「人生の中で最も楽しい時期」を明るく過ごす彼らと、「自然に」「明るく」交われるはずもなく、屈託し、劣等感の塊になった。皆が、校庭でボール遊びをしたり、友達の席へ自然に行く(何しに来たの?といわれるのが怖くないのだろうか?)休み時間は、自分の孤立が発覚するのが恐くて、廊下をうろうろしたり、水飲み場で水を飲んだりしていた。

 そんな自分が映画を良く見るようになったのは、小難しい言い方をすれば、自己のアイデンティティーを確立する為であったのだろう。何か、自分に自信が持てるものが欲しかった。あいつは何々が得意だ、と言われる存在になりたかった。いわゆる「キャラ」が欲しかったのだ。そう言えば、その頃の一番の悩みは「存在感がない」だった。「浮いてる」という言葉があるが、自分の場合、「沈んでる」だった。いや、正確には、浮いても沈んでもいない、「空気のような存在」というところだっただろう(もっとも、このような考えは多分に思い込みだった、という事は、だいぶ後になってから気づくのだけれど)。

 部活をやめたせいで、授業が終わるとすぐ学校を出るようになった自分は、帰宅するまでの間、自宅の駅前の本屋で立ち読みをするのが日課になった。須原屋という3階立ての地元では一番大きな本屋で、、文庫や新刊本、自己啓発本などを読む時だけが、灰色の現実を忘れさせてくれる唯一の時間だった。気づくと、3~4時間経っていて。夕飯の時間に間に合うよう慌てて家に帰るのだった。

 ある時、雑誌(『ぴあ』)で「名画座」というのがあるのを知った。映画館の名前ではなく、古い映画やロードショーの終わった映画を安く2本立てで安く見れる所だと知った。

 それから、映画館通いが始まった。幸い、時間はたっぷりある。お金も何とかやりくりした。

ブルース・スプリングスティーン 『I'll work for your love』


マジック

マジック

2007年10月にリリースされたアルバム『MAGIC』より。オリジナル最新作(2009年01月)の一枚前のもの。ブッシュ大統領のイラン・アフガン政策の真っ只中でリリースされた。

ロイ・ビタンの、どこかメルヘンチックな、美しいピアノの響きから始まるこの曲は、収録12曲中7曲目。アルバムの真ん中に位置し、もっとも、シンプルなロックンロール・ナンバーだ。

ピーター・バラカン氏が著書の中で、「私にとっての彼の一番の魅力は、日常会話で使うような表現で、とても深い世界を表現しているところ」だと述べているが、私も同感だ。加えて、サウンドと噛み合い渾然一体となってメッセージを伝えてくるのには、体の奥から感動させられる。

「俺はお前の愛のために働く(努力する)」という曲名。こんなどこにでもある表現が、彼の声とバンドサウンドに乗って歌われると、激しく心を揺さぶる。

ストーリーは、キリスト教の聖女の名である「Theresa」のために俺は懸命に生きる、というもの。3分30秒のBalladだ。聖書のイメージを下敷きにしながら描写されるのは、ヨハネの黙示録のような、悲惨な世界。

「文明の埃と愛の甘い残骸が/おまえの指先から滑り落ち/雨のように降り注ぐ」

「お前のロザリオは涙に濡れている/おまえの足元には、骨でできた俺の神殿/この地獄のような世界で俺たちは生き続ける」


「俺」は、そんな世界の中で、「お前の愛のために」努力する。「他の男たちが愛をただで手に入れようとする」(whatever oter may want for free)なかで。

力強いドラムとギターがサウンドを支え、繰り返されるメインヴァースでは、フィドル・ハーモニカ・激しいドラムが、繊細さと力強さを伝えてくれる。


彼の詩はシンプルとも言えるが、その詩世界は、深く、抽象的だ。ちょうど、最も美しく、硬く、単純な元素配列を持つダイヤモンドのように。

例えば、アルバムの最後に収めれている長年のマネージャへの鎮魂歌『Terry's song』では、彼の具体的な思い出は一切語られない。かれの人間性を推察できるのは、「神が、君を作ったとき、神は鋳型(the mold)を破壊した」という表現のみ。神はタイタニック号やピラミッド、モナリザを作ったが、君はそれ以上の存在だ、という意味だが、実際の彼はそんなに優れた人間だったのか。多分そうではあるまい。ごく普通の人間だったはずだ。しかし、スプリングスティーンは、人間や動物や優れたモニュメントを作った神を持ち出し、彼の死を抽象まで高める。そこに彼の芸術家としての才能を見ることもできるが、私は、彼の人間への深い愛、音楽に対する真摯な態度を見る。個人的・具体的な出来事を普遍まで高め、数多くの人間のために、作品を作る。もちろん、それを可能にするのは、ソングライターとしての高い技術だが。


このような、深い作品-同時に大衆的なサウンド-を、彼を「Boss」と慕うアメリカの労働者階級はどういう思いで聴くのだろうか。多分、彼が詩の奥に秘めた教養と広さを、きちんと理解してはいないだろう。しかし、大事なのはそこではない。それでもなお、多くの大衆から、何十年もの間支持され、尊敬され、現役のロックシンガーとしてコンサートホールを満員にしている、という事実だ。


「日常に根ざした魂の歌」をかける存在。様々な現実を、現代に生きる人間として苦闘しながら、音楽によりかからず、人々の為に作品を作り続ける存在。


日本には果たしてそのような存在はいるだろうか。いや、そんな事はどうでも良い。私は、今日も、彼のような存在がいる事を希望に生きていこう。

キングコング西野

今のお笑いブームは、第何世代に当たるのだろうか?俺が「芸人」として認められるのは、ナインティナインまでである。そこから下の世代は、何か別の言葉で言い表されるべきだ、と思う(今のブームは「エンタ以後」だな)。

ナインティナインのすぐ下の世代で、エンタ「以前」の、代表的なのが、キングコング

正直、ナイナイの縮小再生産みたいで、好きではなかった。少なくとも、面白いとは思わなかった。特に、ツッコミの西野の顔が、生理的に受け付けない(失礼)。

そんな評価が変わったきっかけが、最近彼が出版した、絵本だった。何でも、10年ぐらい前から、出版のアテもないのに、コツコツ書いていたらしい。

見上げた根性だ。

そして、それを水道橋博士が、ブログで言及していたのを見た。絵本だけではなく、彼の芸人としての姿勢を褒めていたものだった。

ブログを見てみて、仰天。記事の内容の濃さと彼の真面目さ(何年間も毎日!更新している)に、評価を変えざるを得なかった。

特に注目すべきは、彼のライブへのこだわりだろう。「西野亮廣独演会」と銘打って、一人しゃべりの舞台で全国を回っている。素晴らしい。

また、彼がネタを書いているのも初めて知る。普通、ボケの方がネタを書くもんだが。

ブログでたびたび「彼女が欲しい」と発言しているが、これだけものを作ることに熱中していたら、彼女なんてできるわけがないだろう。しかし、それでも幸せだとかれは言っている。まぎれもなく、「芸人」としての覚悟が据わっているのだ。

この先、キングコングがどうなっていくのか、ひいては、このお笑いブームがどうなっていくのか、少しの冷静さと大きな愛をもって、見守っていこう。


2009年9月9日水曜日

「生きる」ということ -飯島愛の思い出-

半年前に書いた文章です。みなさんに、ぜひ読んでほしいので、再度掲載します。


昨年の12月24日、飯島愛が亡くなった。

夕方のニュースの第一報で報じられていた。

びっくりした。

「連絡がつかない事を不審に思った友人が管理人に頼んで開けてもらったところ、部屋の中で倒れていた」

自殺?いやな感じがした。

少しして「事件性はない」との報道。

その頃、うつだった自分は、なんとも言えない気分になった。


AV女優の頃の飯島愛は、気になる存在ではなかった。どこにでもいるセクシータレント。ぽっと出のすぐ消える芸能人。そんな風に思っていたように思う。

そんな印象が変わったのは、彼女がバラエティータレントに転身してからのこと。頭が良くて、愛嬌がある女の人だなあ、と思うようになった。たぶん世間の多くも、僕と同じように感じ、彼女を支持したのだと思う。

その後、「プラトニック・ラブ」がベストセラーに。その頃から、文化人的なコメントを求められるようになっていった。普通なら、少し鼻についたりするようになるものだが、彼女の場合、それはなかった。美輪明宏さんに読んでもらって、「本当にあなたが書いているの?」と聞かれたそうだ。そうだと答え、驚かれた。「美輪さんの反応が一番うれしかった」と、その話を笑い話にしながら語る彼女に、センスの良さを感じた。

その後、彼女は順調に芸能界においてのポジションを築いていく。所属事務所の渡辺プロの50周年のパーティーか何かで、中山秀征と二人で司会する彼女を見て、とうとうここまで来たか、と思ったものだった。

そんな彼女の陰の部分が気になり始めたのはいつからだったろう?今思い出すのは、2冊目の本で、最近男日照りだ、とか、やっぱ人生金だよね、とか書いてたのを、本屋で立ち読みして、何か心がざわついたことである。彼女は何でも本音で発言し、自分をさらけ出すのが売りだったから、別に普通の発言と言えなくもないのだけれど、なにかその時は、彼女に対する同情みたいなのが湧いたのを覚えている。表面は華やかだが刹那的な芸能界で、この人は必死に頑張っているんだな、とその発言は悲痛な叫びに響いたのだった。

その認識を確かにするようになったのは、中山秀征との日曜昼の番組「ウチくる」に出るようになってからだった。そこでの彼女は、場を盛り上げる笑顔が痛々しくて、仕事が終わって一人帰る部屋ではどんな顔をしているのだろう、と思わせた。情報によると、その頃から、腎臓を悪くし、収録に遅れることが増えていったという。でも、体の問題だけじゃない、心がすごく痛んでいたのだと思う。

女の人は大変だ。ひとりの人の確かな愛情を受けられるかどうか、それで人生が決まってしまう。一時期、勝ち犬・負け犬という言葉が流行ったけれど、あの言葉は、かなりの部分真実を言い当てている。もちろん、「本当に」一人の確かな愛を勝ち取れる女性なんて、ほとんどいない。「真実の愛」なんて、そこらに転がってはいないのだ。だから、せめて外面を取り繕おうと「婚活」にいそしむ。それでも、結婚できたら幸せな方だ。

愛を受けられなかった女性は、仕事や趣味に走るのだろうけど、仕事でやりがいを得るなんて、そこらの自己啓発本が言うほど、簡単じゃない。男だって、いっぱいいっぱいなのだ。まして、男女平等なんてお題目のなかでは、激烈な努力を強いられることになり、結局体や心を害す。趣味だって、人生の空虚さを埋めるほどのものとなれば、やっぱりある種の努力を必要とする。アフターファイブの習い事なんかじゃ、心の隙間は埋められない。

彼女は、そのような大変さを、ある意味一身に体現してしまった。

死ぬ前に、自ら警察に出向いて、「寂しいんです」と相談したというエピソードは、それを、これ以上ない形で、表している。しかし、なんと、悲しく、なんと、切ない場面であろうか。

今年の1月ごろ、その時はうつは回復していたのだが、飲み屋で、その話になったことがある。「でも、俺は、前から、彼女の心の闇を感じていたよ」と言うと、親友のKは、「いや、それ、みんな分かってたよ」とさらりと言った。その時、なぜか、むかっ、とした事を覚えている。なぜだったんだろう?今、理由を考えるに、親友のその発言には、理解はあっても、共感がなかったからではないか。彼女の寂しさが自分のことのように分かってしまう自分と、そこまではいかない世間の人たち。そんな人たちが彼女を死に追いやったと言ったら言い過ぎだろうか?

AV監督の村西とおるは、ブログの追悼文のなかで、彼女の人生を「頑張っても、頑張っても、うまくいかなかった人生」だったのではないか、と言っている。30歳を過ぎ、人生の挫折を経験した自分にはこの言葉の重みがわかる。彼は、すぐ後にこうも言っている。「彼女の人と比べてたぐいまれなきは、その優しさであった」と。これを読んだ人は、あとの方のセリフにより心を動かれるのだろうけれど、私は、なぜか、まえの言葉に強く心を揺さぶられる。なぜだろうか?彼女の必死さが分かるからだろうか。彼女のさびしさがつたわってくるからだろうか。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。

「お別れの会」で、島田紳介が、祭壇の愛さんに語りかけていた。「愛!」と、まるで、兄貴のように、近所の幼馴染のように語りかける彼は、芸能界の最良の理解者だった。「芸能界で生き残るために、これから一生懸命勉強しような」との言葉に、愛さんは、真面目に応え、その大学ノートは、文字でぎっしり埋まっていたという。「父から受け継いだくよくよする性格」で、「落ち込む時は、死ぬ事まで考える」という彼は、彼女の笑顔の裏の寂しさがわかっていたに違いなく、引退の発表の際には、芸能界の人間の中で、一番に電話をかけたらしい。さぞかし、無念だったろう。そして、同時に後ろめたさも感じたのではないか、と思う。同じような「寂しさ」を感じてしまう人間として、一方は、若くして独身のまま自分の部屋で独り死に、一方は、芸能界で大成功し、結婚生活もきちんと成就させ、娘も無事嫁いだ。そう考えると、村西の、あまり認めたくない、「頑張っても、頑張っても、うまくいかなかった人生」、という言葉は、真実かもしれない。

生きることは大変だ。つらいことだ。リリー・フランキーは『東京タワー』の中で、「子供の頃は、野球選手やパイロットが『夢』、普通に生きることは、夢なんかじゃない、『あたりまえのこと』だ、と思ってた」と書いている。そう、「あたりまえのこと」。「普通の人生」。彼女は、それを誰よりも望みながら、ついに手に入れることが出来なかった。

彼女に同情するのがこの文章の目的ではない。彼女に共感すること。彼女の思いを受け継いで頑張って、生きること。希望が見えなくても、前を向いて生きていくこと。それが、僕の今の思いだ。


すっかり、長くなってしまった。

想いは、時間や空間を超える、という。僕のこの想いが彼女に届くことを願って、この文章を終わりたい。

愛さん、さようなら。そして、お疲れ様。