2009年11月3日火曜日

TVドラマ『スマイル』論

2009年のこの日本で、希望を語ること、奇跡を語ること、人々の善意について語ること。この、困難で、滑稽でさえある課題に、ドラマ『スマイル』は成功した。

 

 『スマイル』は、骨太な「物語」を正面から語る。対立軸は「善」と「悪」だ。町の小さな米卸問屋町村フーズの人々が、検察やマスコミの攻撃にさらされる。毎回これでもかというほど悪いことが起こっていくが、主人公たちは「笑顔(スマイル)」で立ち向かっていく、という物語だ。

 

 思えば、骨太な物語を正面から語ることができた時代は遠い昔のことである。日本映画の黄金期に存在したそのような熱気は、作者の狭い価値観による感傷にとって変わられた。少数の才能ある表現者は、物語が成立しない「貧しい」現代における新しい世界の地平を、独特の演出や台詞のリズムによって切り開いてくれたが、彼らは例外的な存在であった。しかし、ある意味それは時代の必然だったのである。『スマイル』は、現代において例外的に、古き良き時代の試みを復活させる方向に挑んだ。

 

 日本映画の黄金期を代表する映画監督黒澤明は、「ヒューマニズム」によって特徴づけられるが、この作品も、現代におけるヒューマニズムを謳っている。それは端的に「スマイル」というタイトルに現れているし、台詞の端々、例えば、自殺した町村フーズの社長を主人公のフィリピン人ハーフ早川ビトが悼む、「社長はね、初めて僕を心から信じてくれた人だったんだよ」、などに現れている。現代を題材にしたTVドラマで、このようなストレートな台詞を聞くことは滅多にない。

 

 黒澤明の名を挙げるもう一つの理由は、『スマイル』の制作過程である。プロデューサー・脚本家・演出家が一年前からディスカッションを重ねていたという「練り上げ」の跡は、配役から編集・音楽に至る全ての細部に見られる。これは、複数の脚本家で作られた最盛期の黒澤作品を想い起こさせる。

 

  黒澤の名を挙げるなんて大げさだと言われるかもしれない。

 しかし、私は、「今」、この作品に出会ってしまった。その偶然に、何か書かずにはいられない使命のようなものを感じてしまったのだ。

 

  世界では、「100年に一度の大不況」、日本では、「格差問題」「派遣の切捨て」などと、かまびすしい。確かにそうだろう。正しいと思う。しかし、私の直感は、本当に大事な所ははそこじゃないと告げる。そこはどこか。椎名林檎による主題歌の歌詞をあげて、この文章を締めくくろう。

 

 「僕らが手にしている 富は見えないよ

  彼らは奪えないし 壊すこともない

  

  もしも彼らが君の何かを盗んだとして

  それはくだらないものだよ

  返してもらうまでもないはず

  なぜなら 価値はいのちに従って付いてる」

グレングールド『ゴールドベルグ変奏曲』~Hさんへの手紙~

……

前半は、グールドを知ってから、今回の55年の録音を聴くまでです。

グールドの事をはじめて知ったのは、高校時代、「孤独の天才術」とかいう本を、本屋で立ち読みしたのがきっかけですね。そこで、グールドが取り上げられていて、興味を持ったんですね。で、確か浪人時代に彼2回目の録音のやつを買ったのかな。その時、1回目の録音のやつと、どっちを買うかを迷ったのは、覚えてますね。

・聞いてみた感想は、「ふーん、なかなか良いな」って感じでした。ま、でも、正直芸術的な意義は全然わからずに、批評家たちが伝説と言う作品を勉強した、という感じでしたね。でも、素直に良いなとは思いました。

・で、大学に入り、映画監督になるべく様々な芸術を見ているうちに、自分の中で審美眼・評価軸が出来てきまして…。

それは一言で言うと「現代は必要ない、古典だ!」。映画で言うと、ゴダールなんて必要ない、溝口、ジョン・フォードだ。文学なら、ギリシャ悲劇、シェークスピア、日本なら漱石まで、という感じですね(笑)。

なんだろう、現代の芸術って、「根っこがなく」て、「貧しい」んですよね。

浅田彰の名前も大学に入ってから知りました。ぼくは、いわゆる浅田=蓮見=柄谷ラインから、多大な影響を受けたんですが、浅田・蓮見のゴダール賛美(そして、グールド賛美)は、結局は受け入れなかった、と。

・浅田大嫌いな老脚本家(石堂淑朗)が、グールドは現代のクラシックをダメにした元凶だと言ってたのも、思い出しました。要するに「根っこがない」ってことだと思うんですが。

 ちなみにその人、小沢征爾についてもぼろくそに批判してましたね。一時期、プロ筋からかなり評判を落としてたのは、事実っぽいんですが、その辺のこと、Hさんくわしいですか?

・で、最近、無料で古今の名録音が聴きまくれるサイトhttp://www.yung.jp/index.php を見つけまして、そこで、ゴールドベルグの1回目の録音を聴いてみたと。


以上、前半終りです。

では、感想行きます。

技術的なことはわからないので、印象面の感想です。


・まず、すごく「聴きやすかった」です。厳格・敬虔なバッハじゃなくて、音楽を愛するバッハ、もっと言えば音楽を楽しんでいるバッハ像を感じました。

・そして、テンポの速さは、「衝撃的・過激さ」というより、「躍動感」という意味づけを与えたくなりました。乱暴にいうと、モーツアルトオペラを聴いているような感じです。

ジャズとかでいう、「歌心がある」って感じですね。こう書いて、突然、ソニー・ロリンズのデビューアルバムに収められている「スローボート・トゥ・チャイナ」を思い出しました。でも、あれより、何倍も「歌って」いたし、全然「アドリブ」性がありましたね。

・それから、81年の録音と比べると、原曲の不眠症の侯爵が眠れるように書かれたという趣旨に近いのは、晩年の方ですよね。でも、それも、バッハの原曲の意図に近付けた、というわけではなく、やはりすごく「自由」です。

・昔は、この演奏は、-特に81年の方-、「グールドが、己の芸術家としての信念を、深い精神性をもって表明した」、と思っていたのですが、今は少し違っていて、

「たかだか眠れない夜の慰めの為に書かれたに過ぎない曲から、その卓越した『技術』によって音楽で一番大事な歌心や躍動感を表現して見せた背後から、我知らず『深い精神性』が立ち上ってくるのが見える」

と言った方が正確なのではないか、という気がしています。。

……

2009年9月10日木曜日

わが青春の映画たち 2

初めて行った名画座は、池袋の文芸坐だったと思う。一旦閉まる前の(今は復活した)旧文芸坐である。何を見たかは良く憶えていない。どんな感想を抱いたかの断片も残っていない。ただ、理由のわからない満足感だけはあった。

名画座通いと併行して始めたのが、レンタルビデオ屋で(DVDはまだなかった)、映画を借りて、観ることだった。そんななかで、印象に残っている作品は、『竜二』、『桜の園』、『BU・SU』である。

その頃は、まだTUTAYAなどなく、小っちゃいビデオ屋が、近所に2~3軒あるだけだった。そこで何時間もいて、色々知識を得る事に、熱中した。一番よく行ったビデオ屋は、今は、ドコモショップになっている。これも、時の流れだ。

 正直に言えば、半分以上は、アダルトビデオを借りるためだった。といっても、18歳未満なので、正式なヤツは借りられず、『エマニエル婦人』とか、韓国の成人映画とかの、「エロ映画」を平静を装いながら、レジに持っていっていた。

わが青春の映画たち 1

せつない映画が好きだった。

 高校生の頃の話である。

 小学生の頃、親の勧めで受験させられ入学した有名進学校(中高一貫の男子校)の生活は「暗黒」だった。もともと人見知りするたちだった俺は、中二のクラス替えで、一年の時仲良かった友達たちと全員別れてしまい、新しいクラスで友達を作ることができなかった。ちょうど思春期に差し掛かったこともあり、勉強なんかに意味を見出せるわけもなく、また、入学して入った野球部も練習についていけなくて(俺は足が極端に遅く、初めのランニングでいつも一人だけ遅れてしまうのだった)、ただ学校に行き、まっすぐ家に帰り、夕方のドラマの再放送(『あぶない刑事』とか『探偵物語』とか。アニメの『ルパンⅢ世』もよく見た)を見て、夕食まで寝、夜中まで起きているという生活だった。

 俺は、活発な運動部の奴等が苦手だった。日常のつまらないことが気になり、つまづいてしてしまう自分は(「こいつのことをあだ名で呼んで良いのだろうか?」「廊下ですれ違った時どう挨拶しよう」)、「人生の中で最も楽しい時期」を明るく過ごす彼らと、「自然に」「明るく」交われるはずもなく、屈託し、劣等感の塊になった。皆が、校庭でボール遊びをしたり、友達の席へ自然に行く(何しに来たの?といわれるのが怖くないのだろうか?)休み時間は、自分の孤立が発覚するのが恐くて、廊下をうろうろしたり、水飲み場で水を飲んだりしていた。

 そんな自分が映画を良く見るようになったのは、小難しい言い方をすれば、自己のアイデンティティーを確立する為であったのだろう。何か、自分に自信が持てるものが欲しかった。あいつは何々が得意だ、と言われる存在になりたかった。いわゆる「キャラ」が欲しかったのだ。そう言えば、その頃の一番の悩みは「存在感がない」だった。「浮いてる」という言葉があるが、自分の場合、「沈んでる」だった。いや、正確には、浮いても沈んでもいない、「空気のような存在」というところだっただろう(もっとも、このような考えは多分に思い込みだった、という事は、だいぶ後になってから気づくのだけれど)。

 部活をやめたせいで、授業が終わるとすぐ学校を出るようになった自分は、帰宅するまでの間、自宅の駅前の本屋で立ち読みをするのが日課になった。須原屋という3階立ての地元では一番大きな本屋で、、文庫や新刊本、自己啓発本などを読む時だけが、灰色の現実を忘れさせてくれる唯一の時間だった。気づくと、3~4時間経っていて。夕飯の時間に間に合うよう慌てて家に帰るのだった。

 ある時、雑誌(『ぴあ』)で「名画座」というのがあるのを知った。映画館の名前ではなく、古い映画やロードショーの終わった映画を安く2本立てで安く見れる所だと知った。

 それから、映画館通いが始まった。幸い、時間はたっぷりある。お金も何とかやりくりした。

ブルース・スプリングスティーン 『I'll work for your love』


マジック

マジック

2007年10月にリリースされたアルバム『MAGIC』より。オリジナル最新作(2009年01月)の一枚前のもの。ブッシュ大統領のイラン・アフガン政策の真っ只中でリリースされた。

ロイ・ビタンの、どこかメルヘンチックな、美しいピアノの響きから始まるこの曲は、収録12曲中7曲目。アルバムの真ん中に位置し、もっとも、シンプルなロックンロール・ナンバーだ。

ピーター・バラカン氏が著書の中で、「私にとっての彼の一番の魅力は、日常会話で使うような表現で、とても深い世界を表現しているところ」だと述べているが、私も同感だ。加えて、サウンドと噛み合い渾然一体となってメッセージを伝えてくるのには、体の奥から感動させられる。

「俺はお前の愛のために働く(努力する)」という曲名。こんなどこにでもある表現が、彼の声とバンドサウンドに乗って歌われると、激しく心を揺さぶる。

ストーリーは、キリスト教の聖女の名である「Theresa」のために俺は懸命に生きる、というもの。3分30秒のBalladだ。聖書のイメージを下敷きにしながら描写されるのは、ヨハネの黙示録のような、悲惨な世界。

「文明の埃と愛の甘い残骸が/おまえの指先から滑り落ち/雨のように降り注ぐ」

「お前のロザリオは涙に濡れている/おまえの足元には、骨でできた俺の神殿/この地獄のような世界で俺たちは生き続ける」


「俺」は、そんな世界の中で、「お前の愛のために」努力する。「他の男たちが愛をただで手に入れようとする」(whatever oter may want for free)なかで。

力強いドラムとギターがサウンドを支え、繰り返されるメインヴァースでは、フィドル・ハーモニカ・激しいドラムが、繊細さと力強さを伝えてくれる。


彼の詩はシンプルとも言えるが、その詩世界は、深く、抽象的だ。ちょうど、最も美しく、硬く、単純な元素配列を持つダイヤモンドのように。

例えば、アルバムの最後に収めれている長年のマネージャへの鎮魂歌『Terry's song』では、彼の具体的な思い出は一切語られない。かれの人間性を推察できるのは、「神が、君を作ったとき、神は鋳型(the mold)を破壊した」という表現のみ。神はタイタニック号やピラミッド、モナリザを作ったが、君はそれ以上の存在だ、という意味だが、実際の彼はそんなに優れた人間だったのか。多分そうではあるまい。ごく普通の人間だったはずだ。しかし、スプリングスティーンは、人間や動物や優れたモニュメントを作った神を持ち出し、彼の死を抽象まで高める。そこに彼の芸術家としての才能を見ることもできるが、私は、彼の人間への深い愛、音楽に対する真摯な態度を見る。個人的・具体的な出来事を普遍まで高め、数多くの人間のために、作品を作る。もちろん、それを可能にするのは、ソングライターとしての高い技術だが。


このような、深い作品-同時に大衆的なサウンド-を、彼を「Boss」と慕うアメリカの労働者階級はどういう思いで聴くのだろうか。多分、彼が詩の奥に秘めた教養と広さを、きちんと理解してはいないだろう。しかし、大事なのはそこではない。それでもなお、多くの大衆から、何十年もの間支持され、尊敬され、現役のロックシンガーとしてコンサートホールを満員にしている、という事実だ。


「日常に根ざした魂の歌」をかける存在。様々な現実を、現代に生きる人間として苦闘しながら、音楽によりかからず、人々の為に作品を作り続ける存在。


日本には果たしてそのような存在はいるだろうか。いや、そんな事はどうでも良い。私は、今日も、彼のような存在がいる事を希望に生きていこう。

キングコング西野

今のお笑いブームは、第何世代に当たるのだろうか?俺が「芸人」として認められるのは、ナインティナインまでである。そこから下の世代は、何か別の言葉で言い表されるべきだ、と思う(今のブームは「エンタ以後」だな)。

ナインティナインのすぐ下の世代で、エンタ「以前」の、代表的なのが、キングコング

正直、ナイナイの縮小再生産みたいで、好きではなかった。少なくとも、面白いとは思わなかった。特に、ツッコミの西野の顔が、生理的に受け付けない(失礼)。

そんな評価が変わったきっかけが、最近彼が出版した、絵本だった。何でも、10年ぐらい前から、出版のアテもないのに、コツコツ書いていたらしい。

見上げた根性だ。

そして、それを水道橋博士が、ブログで言及していたのを見た。絵本だけではなく、彼の芸人としての姿勢を褒めていたものだった。

ブログを見てみて、仰天。記事の内容の濃さと彼の真面目さ(何年間も毎日!更新している)に、評価を変えざるを得なかった。

特に注目すべきは、彼のライブへのこだわりだろう。「西野亮廣独演会」と銘打って、一人しゃべりの舞台で全国を回っている。素晴らしい。

また、彼がネタを書いているのも初めて知る。普通、ボケの方がネタを書くもんだが。

ブログでたびたび「彼女が欲しい」と発言しているが、これだけものを作ることに熱中していたら、彼女なんてできるわけがないだろう。しかし、それでも幸せだとかれは言っている。まぎれもなく、「芸人」としての覚悟が据わっているのだ。

この先、キングコングがどうなっていくのか、ひいては、このお笑いブームがどうなっていくのか、少しの冷静さと大きな愛をもって、見守っていこう。


2009年9月9日水曜日

「生きる」ということ -飯島愛の思い出-

半年前に書いた文章です。みなさんに、ぜひ読んでほしいので、再度掲載します。


昨年の12月24日、飯島愛が亡くなった。

夕方のニュースの第一報で報じられていた。

びっくりした。

「連絡がつかない事を不審に思った友人が管理人に頼んで開けてもらったところ、部屋の中で倒れていた」

自殺?いやな感じがした。

少しして「事件性はない」との報道。

その頃、うつだった自分は、なんとも言えない気分になった。


AV女優の頃の飯島愛は、気になる存在ではなかった。どこにでもいるセクシータレント。ぽっと出のすぐ消える芸能人。そんな風に思っていたように思う。

そんな印象が変わったのは、彼女がバラエティータレントに転身してからのこと。頭が良くて、愛嬌がある女の人だなあ、と思うようになった。たぶん世間の多くも、僕と同じように感じ、彼女を支持したのだと思う。

その後、「プラトニック・ラブ」がベストセラーに。その頃から、文化人的なコメントを求められるようになっていった。普通なら、少し鼻についたりするようになるものだが、彼女の場合、それはなかった。美輪明宏さんに読んでもらって、「本当にあなたが書いているの?」と聞かれたそうだ。そうだと答え、驚かれた。「美輪さんの反応が一番うれしかった」と、その話を笑い話にしながら語る彼女に、センスの良さを感じた。

その後、彼女は順調に芸能界においてのポジションを築いていく。所属事務所の渡辺プロの50周年のパーティーか何かで、中山秀征と二人で司会する彼女を見て、とうとうここまで来たか、と思ったものだった。

そんな彼女の陰の部分が気になり始めたのはいつからだったろう?今思い出すのは、2冊目の本で、最近男日照りだ、とか、やっぱ人生金だよね、とか書いてたのを、本屋で立ち読みして、何か心がざわついたことである。彼女は何でも本音で発言し、自分をさらけ出すのが売りだったから、別に普通の発言と言えなくもないのだけれど、なにかその時は、彼女に対する同情みたいなのが湧いたのを覚えている。表面は華やかだが刹那的な芸能界で、この人は必死に頑張っているんだな、とその発言は悲痛な叫びに響いたのだった。

その認識を確かにするようになったのは、中山秀征との日曜昼の番組「ウチくる」に出るようになってからだった。そこでの彼女は、場を盛り上げる笑顔が痛々しくて、仕事が終わって一人帰る部屋ではどんな顔をしているのだろう、と思わせた。情報によると、その頃から、腎臓を悪くし、収録に遅れることが増えていったという。でも、体の問題だけじゃない、心がすごく痛んでいたのだと思う。

女の人は大変だ。ひとりの人の確かな愛情を受けられるかどうか、それで人生が決まってしまう。一時期、勝ち犬・負け犬という言葉が流行ったけれど、あの言葉は、かなりの部分真実を言い当てている。もちろん、「本当に」一人の確かな愛を勝ち取れる女性なんて、ほとんどいない。「真実の愛」なんて、そこらに転がってはいないのだ。だから、せめて外面を取り繕おうと「婚活」にいそしむ。それでも、結婚できたら幸せな方だ。

愛を受けられなかった女性は、仕事や趣味に走るのだろうけど、仕事でやりがいを得るなんて、そこらの自己啓発本が言うほど、簡単じゃない。男だって、いっぱいいっぱいなのだ。まして、男女平等なんてお題目のなかでは、激烈な努力を強いられることになり、結局体や心を害す。趣味だって、人生の空虚さを埋めるほどのものとなれば、やっぱりある種の努力を必要とする。アフターファイブの習い事なんかじゃ、心の隙間は埋められない。

彼女は、そのような大変さを、ある意味一身に体現してしまった。

死ぬ前に、自ら警察に出向いて、「寂しいんです」と相談したというエピソードは、それを、これ以上ない形で、表している。しかし、なんと、悲しく、なんと、切ない場面であろうか。

今年の1月ごろ、その時はうつは回復していたのだが、飲み屋で、その話になったことがある。「でも、俺は、前から、彼女の心の闇を感じていたよ」と言うと、親友のKは、「いや、それ、みんな分かってたよ」とさらりと言った。その時、なぜか、むかっ、とした事を覚えている。なぜだったんだろう?今、理由を考えるに、親友のその発言には、理解はあっても、共感がなかったからではないか。彼女の寂しさが自分のことのように分かってしまう自分と、そこまではいかない世間の人たち。そんな人たちが彼女を死に追いやったと言ったら言い過ぎだろうか?

AV監督の村西とおるは、ブログの追悼文のなかで、彼女の人生を「頑張っても、頑張っても、うまくいかなかった人生」だったのではないか、と言っている。30歳を過ぎ、人生の挫折を経験した自分にはこの言葉の重みがわかる。彼は、すぐ後にこうも言っている。「彼女の人と比べてたぐいまれなきは、その優しさであった」と。これを読んだ人は、あとの方のセリフにより心を動かれるのだろうけれど、私は、なぜか、まえの言葉に強く心を揺さぶられる。なぜだろうか?彼女の必死さが分かるからだろうか。彼女のさびしさがつたわってくるからだろうか。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。

「お別れの会」で、島田紳介が、祭壇の愛さんに語りかけていた。「愛!」と、まるで、兄貴のように、近所の幼馴染のように語りかける彼は、芸能界の最良の理解者だった。「芸能界で生き残るために、これから一生懸命勉強しような」との言葉に、愛さんは、真面目に応え、その大学ノートは、文字でぎっしり埋まっていたという。「父から受け継いだくよくよする性格」で、「落ち込む時は、死ぬ事まで考える」という彼は、彼女の笑顔の裏の寂しさがわかっていたに違いなく、引退の発表の際には、芸能界の人間の中で、一番に電話をかけたらしい。さぞかし、無念だったろう。そして、同時に後ろめたさも感じたのではないか、と思う。同じような「寂しさ」を感じてしまう人間として、一方は、若くして独身のまま自分の部屋で独り死に、一方は、芸能界で大成功し、結婚生活もきちんと成就させ、娘も無事嫁いだ。そう考えると、村西の、あまり認めたくない、「頑張っても、頑張っても、うまくいかなかった人生」、という言葉は、真実かもしれない。

生きることは大変だ。つらいことだ。リリー・フランキーは『東京タワー』の中で、「子供の頃は、野球選手やパイロットが『夢』、普通に生きることは、夢なんかじゃない、『あたりまえのこと』だ、と思ってた」と書いている。そう、「あたりまえのこと」。「普通の人生」。彼女は、それを誰よりも望みながら、ついに手に入れることが出来なかった。

彼女に同情するのがこの文章の目的ではない。彼女に共感すること。彼女の思いを受け継いで頑張って、生きること。希望が見えなくても、前を向いて生きていくこと。それが、僕の今の思いだ。


すっかり、長くなってしまった。

想いは、時間や空間を超える、という。僕のこの想いが彼女に届くことを願って、この文章を終わりたい。

愛さん、さようなら。そして、お疲れ様。